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日野市は東京都多摩地区の西部、多摩川と浅川流域に位置し、今でも豊かな自然が残っています。かつて「多摩の米蔵」と呼ばれ、古くから田園が広がっていた農業と稲作の街でした。江戸時代には、甲州街道の宿場町として栄え、現在では「新選組のふるさと」として有名な日野市。「土方歳三資料館」や「高幡不動尊」などの歴史を感じるスポットやイベントも充実。今回はそんな日野市にスポットを当て、地域の文化とその魅力を探っていきたいと思います。
日野を語るときに、用水の存在は欠かすことができません。江戸時代には多摩川と浅川から引かれた農業用水路が街中を流れ、現在でも「日野用水」や「豊田用水」など、数多くの用水路が網の目のように巡らされています。市内を流れる主な用水路は全部で14あり、支線を含めた総延長は2008年(平成20年)時点で約116km。この長さは都内最長となっています。
日野用水の歴史は古く、美濃国(岐阜県)から移住してきた佐藤隼人によって室町時代後期の1567年(永禄10年)に開拓されたのが始まりと言われています。この頃の日野市域は小田原北条氏の支配下に入り、滝山城(のちの八王子城)の城主であった北条氏照は多摩地域の開発を積極的に進めていました。
佐藤隼人は北条氏照から許可を得て、用水路の開削を開始。日野用水の開削や谷地川と合流させて上下堰を作ったり、甲州街道の前身とも言われる街道の建設にも協力しました。村人に押されて名主となり、1605年(慶長10年) の没後は日野市日野本町の大畠寺に葬られています。
用水路が造られたことで人々が集まるようになり、やがてこれらの地域は甲州街道沿いの宿場町・日野宿としても栄えるようになりました。母屋や蔵の残る旧家や家並みなど、今でもその名残がみられます。また石積みされた護岸が随所にあり、かつて50基以上あった水車を新造した「水車堀公園」や「向島用水」は、昭和以前の田園風景を感じさせてくれます。
江戸時代の日野用水は、日野本郷、万願寺村、下田村、新井村、石田村、宮村、上田村の七ヶ村を灌漑しており、これらの村々のほとんどは、江戸幕府直轄の幕領だったようです。日野用水多摩川と浅川に挟まれた低地に張巡らされた用水の総延長は日野市全域で170㎞にも及び、「多摩の米蔵」と呼ばれた穀倉地帯を支え、実収三千石ともいわれた石高を日野郷にもたらしていました。
1723年(享保8年)には、武蔵野新田開発の一環として、高倉原(日野市多摩平、富士町、旭が丘、日野台、さくら町、八王子市高倉町近辺)が開発され、日野地域の農業生産力は一段と高まることになります。
日野の水環境においては、河川や用水路だけでなく湧水も「水の郷」を形成する大切な要素です。市内には180カ所ほどの湧水地があり、その豊かな水は現在でも日野市の魅力の一つです。湧水が集まって小川をつくり、崖線を豊かな緑地に育てることで、帯状の「緑の回廊」が形成されています。このような緑と水のあふれる風景が、日野市の住みやすさの一因となっています。
東京都は2003年(平成15年)に「東京の名湧水57選」を選定しており、日野からは3ヵ所(中央図書館下湧水群・黒川清流公園湧水群・小沢緑地湧水)が選ばれており、これらのスポットは散策にもぴったりですので、日常的に水のある風景に触れることができるのではないでしょうか。
出典:水の郷・日野を歩く│ミツカン 水の文化センター
出典:京浜河川事務所|多摩川の名脇役|日野用水
出典:日野用水 – 日野市観光協会
共同体として日野の基礎ができたきっかけは、江戸時代初期の1605年(慶長10年)甲州街道が整備され、宿場町「日野宿」が置かれたこと、明治になるまで多摩の他の村々と同様に幕府の直轄地となっていたことにあると言われています。
日野宿は甲州街道の5番目の宿場町で、八王子宿と府中宿の間の宿場町として成立しました。甲州街道は、江戸幕府によって整備された五街道のひとつで、江戸の日本橋から内藤新宿、府中、日野、八王子、甲府を経て信州の下諏訪宿へと至り中山道と合流する街道で、道中には44次の宿場が置かれました。江戸城に危機が及んだときの避難路として整備されたとも言われ、江戸中期頃からは、甲州、信州などから江戸への流通の道として重要性を増し、江戸100万人の生活を支える動脈として発展。様々な名所旧跡や景勝地、歴史的なエピソードの残る街道です。
現在の甲州街道の宿場町では、日野宿、小原宿、上諏訪宿の3軒の本陣建物が残っており、中でも「日野宿本陣」は、東京都内で唯一現存する本陣建築であることから、市指定有形文化財、東京都指定史跡に指定されています。「本陣」は江戸時代以降の宿場で身分が高い者(大名や旗本、幕府役人など)が泊まった建物で、原則として一般の者を泊めることは許されていませんでした。宿役人の問屋や村役人の名主などの居宅が指定されることが多く、格式高い宿として、立派な門構えや建物が見られることが一般的です。
もともと本陣はそれぞれの地域の有力者の邸宅であったため、明治維新後には宅地開発などで多くが取り壊されたり、敷地を利用して公的施設とされたものも多く存在します。現在では破却などを回避した建物を文化財として保存しようという考えが広まり、観光資源としても注目を集めています。
日野宿本陣の現在の建物は、1849年(嘉永2年)の大火で焼失してしまった主屋にかわるものとして、1864年(元治元年)に再建され、それ以来使用されている建物です。10年もの歳月をかけて造られた本陣屋敷は、日野宿を何度か襲った大火、関東大震災そして第二次世界大戦にも耐え、その姿を現代に留めています。
入母屋造りの玄関が立派な本陣建築、内部の襖絵などや、建物奥の枯山水庭園の雰囲気は、現代に生きる私たちにとって、街の喧騒から離れ歴史に思いを馳せることのできる魅力的な空間です。毎週月曜日を除く9:30から17:00までどなたでも見学でき、都心から電車で約30分と交通の便も良好。江戸時代の遺構が残り、歴史を感じられる宿場町として、大変貴重なスポットではないでしょうか。
出典:日野宿本陣 – 新選組のふるさと日野 – 日野市観光協会
出典:日野宿本陣 | 日野市立新選組のふるさと歴史館
宿場を運営する宿役人のうち、宿場の最高責任者を問屋(といや)と言います。問屋は、その地方の名主がなることが多く、日野宿の問屋は上佐藤家、下佐藤家の二家が代々、兼帯で問屋を務めていました。はじめは上佐藤家が本陣、下佐藤家が脇本陣と定められましたが、幕末には下佐藤家が本陣を務めるようになります。
江戸時代後期、その時の当主、下佐藤家の佐藤彦五郎が「天然理心流」と出会ったことが、歴史の大きな転換点となります。大火をきっかけに自衛の必要を痛感した佐藤彦五郎は、剣術、居合術、柔術などの総合武術である「天然理心流」に入門。やがて本陣の長屋門を改装し、ここを天然理心流の道場「佐藤道場」とします。その折に道場で剣術を教えることになったのが新選組局長・近藤勇でした。そしてこの道場で出会い、共に稽古に励んだのが、沖田総司、井上源三郎、そして佐藤の義弟であった土方歳三ら、新選組の主要メンバーでした。
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