多摩市(たまし)は、東京都の多摩地域南部に位置する市。
東京のベッドタウンとして開発され、全域に住宅街が広がっている。1971年(昭和46年)市制施行。
概要
市域は多摩川中流右岸に広がり、多摩丘陵の北端を占める。北端は多摩川、南端は多摩丘陵の稜線である。多摩川の支流である大栗川とその支流である乞田川が刻んだ、やや開けた谷戸状の地形を持つ。市域はこの谷戸状の地形に沿って東北東から西南西方向に長い形状をなし、起伏に富んでいる。
北を東京都府中市、東京都日野市、西を東京都八王子市、南を東京都町田市、東を神奈川県川崎市麻生区、東京都稲城市に接する。多摩ニュータウンが市域南部から稲城市、八王子市、町田市の京王相模原線沿線にまたがって造成されている。当市に位置する多摩センター駅南側の地域は多摩ニュータウンの中心的な役割を持つ。市域の約6割を多摩ニュータウンが占めており[1]、団地型の分譲マンションが多い。初期に開発を始めた永山駅南側の諏訪・永山地区を中心に団地の老朽化と高齢化が進行しており、団地のリニューアルや再開発が検討されている[2]。
2007年度の商業統計によると、多摩市内の商業集積地の年間売上高としては多摩センター駅前(33,140 百万円)と聖蹟桜ヶ丘駅前(47,612 百万円)が突出した規模となっている[3]。それぞれ東京都の「都心等拠点地区」と「一般拠点地区」に位置づけられている地区である[4]。これらは地理的には多摩センター駅周辺は八王子市と隣接し、聖蹟桜ヶ丘駅周辺は府中市・日野市に隣接する多摩市の“端っこ”だが、どちらも多摩市都市計画マスタープランで「広域型商業・業務地」と位置付けられる多摩市の中心地である[5]。聖蹟桜ヶ丘駅前は京王電鉄を始め、京王グループ各社が本社を構えている。また、当市は業務核都市の指定を受けている[6]。多摩センター駅前に位置しているサンリオピューロランドは国内では珍しい屋内型テーマパークであり、国内外から多くのサンリオファンが訪れる観光施設として知られる。聖蹟桜ヶ丘はジブリ映画「耳をすませば」のモデルであることを活かして町おこしの取り組みが行われている。
多摩センター駅から東西方向に京王相模原線や小田急多摩線が通じ、東京都心への主要なアクセスとなっている。また、南北方向には多摩都市モノレールが走り、多摩地域の南北へのアクセスを担っている。
東洋経済新報社の「住みよさランキング2015」の総合評価において多摩市は、関東地方での順位は15位、東京都での順位は3位と、上位にランクインしている[7]。また、同ランキングで多摩市は、人口に対する商業の利便性を評価した「利便度」において全国順位で30位[8]、財政健全度を評価した「富裕度」において全国順位で24位[9] になっている。2018年度の3年平均の財政力指数は1.1であり、普通交付税不交付団体となっている[10]。
隣接している自治体(行政区)
歴史
遺跡・古墳
多摩丘陵ではおよそ3万年前から人類が住み始めたと言われている。1965年(昭和40年)辺りから広範囲に宅地や商業地の造成(多摩ニュータウンの開発など)が行われる事が決まり、それに伴い大規模な遺跡の発掘調査が行われた。縄文時代、古墳時代を中心に遺跡調査が綿密に行われ、古いもので旧石器時代である約25,000年から20,000年前の石器が豊ヶ丘で出土している。
縄文時代
縄文時代(約10,000年前〜)には大栗川、乞田川沿いの高台に多くの縄文人が定住し複数の村を形成しており、長い間(およそ7000年間)この地に定住をしていたと思われる。和田西遺跡(約5,700年〜4,700年前)では大型竪穴建物跡が7棟発見され、集会場などとして利用されていたと考えられている。しかし縄文時代後期(約4,000年〜3,000年前)に入り遺跡数は急激に減る。その要因として人口急増や気候の寒冷化に伴う食料の枯渇、箱根山や富士山の度重なる噴火、稲作の始まりによる低地への移動などが挙げられている。東京ではあまり発見されない縄文時代晩期前半(約3,000年前)の遺跡(新堂遺跡・集団墓地)が多摩市で発見され珍しい遺物が出土しているが、その遺跡を最後に古墳時代までほぼ定住者はいなくなったと考えられている。
多摩市和田周辺では昭和40年代以前には、畑を耕したり大雨が降ったりすると縄文土器が出土する事が度々あったと言われている。
東京都埋蔵文化財センターでは遺物の展示や多摩ニュータウンNo.57遺跡(東京都指定文化財)の保存と活用を兼ねて建設された遺跡庭園があり、竪穴建物が3棟復原されている。50種類の樹木などを植栽するなど当時の景観の中で散策ができるようになっている。
古墳時代
全国的に珍しい八角形の古墳、稲荷塚古墳(東京都指定文化財)が百草にある。凝灰岩の切石を用いた石室など、当時としてはかなり精巧な技術で作られているため、その重要性が指摘されている。当初、円墳と思われていたが調査をした結果、東日本では初めての発見となる八角墳と判明した。全国でおよそ15万基造られた古墳の内、八角墳は全国で15例ほどしかない。稲荷塚古墳の築造時期は7世紀前半と言われているが、その後八角墳は主に天皇陵(天智天皇、天武天皇、持統天皇など)の古墳として築造されている。なぜこのような高度な古墳がこの地に作られ、どのような人物が埋葬されていたかは不明である。
稲荷塚古墳の近くには臼井塚古墳があり、こちらも築造時期は7世紀前半で凝灰岩の切石を用いた石室である。
他、6世紀中頃から7世紀中頃までの100年間に渡り造られた塚原古墳群(つかっぱらこふんぐん)がある。江戸時代後期の『新編武蔵風土記稿』には「古墳が元禄の頃には40〜50基あったが、14、5基に減少した。」とされている。しかし現在までに確認されているのは10基である。川原石を用いた横穴式石室を持つ古墳群である。
他に多摩丘陵最大の横穴墓群である中和田横穴墓群や庚申塚古墳、市境にある日野市万蔵院台古墳群など6世紀中頃〜7世紀中頃にかけて幾多の古墳があり、都内でも有数の古墳群の一つである。
しかし現在はそれらの古墳のほとんどは姿を消し、確認できる古墳は少数となっている。
大規模開発
桜ケ丘住宅地
桜ケ丘住宅地は当時の京王帝都電鉄が計画的に開発した住宅地で、聖蹟桜ヶ丘駅(京王線)の南側から、永山駅(小田急多摩線・京王相模原線)の北側にかけて広がる。多摩丘陵の北端に位置するため、眺望良好な宅地が比較的多い。「自然条件を十分に活かした高級住宅地」という位置づけで、1区画は平均100坪となっている[13][14]。地区計画で敷地面積は最低で50坪(165平方メートル)と定められ、それ以下への分割は認められていない[15]。
1960年に工事がスタートし、1962年に第1期分譲が開始された。1963年には、この住宅地から都心への速達のために、京王線で無料特急の運行が開始されて聖蹟桜ヶ丘駅が停車駅となり、新宿駅までの所要時間は25分となった。この開発に関連して聖蹟桜ヶ丘駅前の開発も行われ、京王聖蹟桜ヶ丘SCや聖蹟桜ヶ丘OPAといった商業施設や、京王電鉄本社やパシフィックコンサルタンツ本社といった企業のオフィスが進出した
多摩ニュータウン
多摩ニュータウンは、多摩市南部から稲城市、八王子市、町田市にまたがって開発された東西約15km、南北約5km、区域面積約2,884ヘクタールの日本最大規模のニュータウンである[16]。京王相模原線では若葉台駅 – 多摩境駅間、小田急多摩線では小田急永山駅 – 唐木田駅間に広がる[17]。この多摩ニュータウンの中心地として多摩センター駅南側一帯の「多摩センター地区」が「都市センター」として定められ、ココリアやイトーヨーカドーといった商業施設や、朝日生命多摩本社やベネッセ東京本社といったオフィスビルの立地が進められている。
事業手法としては土地区画整理事業および新住宅市街地開発事業である。土地区画整理事業区域では集合住宅や戸建住宅、商店が適度に混在した街並みが形成されている。新住宅市街地開発事業区域は近隣住区理論に基づいて開発された街並みで、区域全体にわたって自動車と交通を分離した歩行者専用道路(遊歩道)が整備され、車道を一切横断することなく移動ができ安全である。この歩行者専用道路は、多摩センター駅前・永山駅前のペデストリアンデッキ(歩行者デッキ)とも接続している。
当初は東京の住宅不足の解消のために計画され、1971年に諏訪・永山地区で入居が始められて多摩ニュータウンの人口は1974年に3万人に達した[18] が、入居開始のわずか2年後の1973年に起きたオイルショックでは高度成長期の終焉とともに住宅不足は沈静化し、多摩ニュータウンは計画の転換を迫られた。そして1982年に東京都のマイタウン構想を受けて多摩ニュータウンは、住宅だけでなく業務・商業・文化の機能導入も図っていくこととなった[19]。住宅も多彩なものが供給されてゆき、多摩ニュータウンは「理想的な都市をつくる」計画に変わっていった[20]。その後、多摩ニュータウンの人口は1985年に10万人、1991年に15万人に達した[18]。
多摩ニュータウンで主に住宅を供給してきた住宅・都市整備公団が1997年に分譲マンション事業から撤退して以降は、未開発の土地が売却され、民間が多摩ニュータウン開発の中心を担うようになった。2000年代以降、多摩市内では多摩センター地区や幹線道路沿いを中心に民間のマンションが次々と建設され、多摩ニュータウンの人口増加を牽引している[21]。そして2010年に多摩ニュータウンの人口は21万人に達した[22]。
多摩ニュータウンは京王線で新宿から30分圏内[23] にありながら、市街地の30%を公園や緑地等が占める緑豊かな街並みが評価される[24] 一方で、2010年現在の多摩ニュータウンの高齢化率は全域で16.0%[22] に達し、住民の世代交代が課題となっている(ただし、同年の東京都の高齢化率は20.3%[22])。初期に開発された諏訪・永山地区では大規模集合住宅の建て替えが複数進んでいるほか、中古物件として流通している既存の集合住宅をリフォームして住むことが提唱されている。多摩ニュータウンで1970年代後半以降建てられた集合住宅は、21世紀に入った今でも家族居住に十分な居住面積であり、これらを中古で安く購入して新築同様にリフォームし、一般的に大きい負担となる住宅取得のコストを低減しようというものである[25]。鉄筋コンクリートの建物の寿命は100年と言われていることから、これは環境面でもエコである。
戸建て風の「タウンハウス」の建ちならぶ街並み(新住宅市街地開発事業で整備)
人口
2024年4月現在の人口は下記の通り。
- 人口:147,751人(2014年:147,593人)
- 世帯数:75,286世帯 (2014年:68,521世帯)
- 世帯人員:1.96人(2014年:2.15人)
- 高齢化率:29.3%(2014年:24.1%)
市制施行前年の1970年の人口は25,105人で、多摩ニュータウンの入居開始以降急増し、1983年に10万人台、1991年に14万人台に達し、これ以降ほぼ横ばいである。2003年の住宅・土地統計調査で多摩市は空き家率8.6%と空き家の発生は少なく(東京都50区市中4番目に低い)、新規住宅供給量に対して需要が追い付いていることから、世帯数は増加を続けている[26]。
2014年現在の高齢化率は24.1%、年少人口比率は12.2%であり[27]、多摩市の世代構成は全国平均と近い(同年の全国平均の高齢化率26.0%、年少人口比率12.8%)。なお、当市南部から周辺3市にかけて広がる多摩ニュータウンの高齢化率は、東京都都市整備局の調査によると2014年現在、20.2%である[28]。同調査では、多摩ニュータウンで最初の1971年に入居が始まった永山地区の高齢化率は28.6%と出ており[28]、初期入居地区において高齢化が進んでいることが問題となっている。こうした初期入居地区にある住宅は当時の水準から住戸面積が小さく、それゆえ家賃が安いため、年金生活でなおかつ2人もしくは1人の高齢者世帯にとって魅力的で、高齢者が集中してしまっていると指摘されている[29]。
2011年の多摩市の人口想定では、人口のピークとなる2026年まで横ばいから微増し、それ以降人口の減少が始まるとされている[30]。2031年までの高齢化率の推移の想定もされており、多摩市の高齢化率は2015年頃に日本の高齢化率とほぼ等しくなって以降は、日本の高齢化率に前後する形で推移するとみられている。
引用元
wikipedia.